横浜中華街は元は中華料理街じゃなかった?

2020年 05月15日

皆さん、横浜と聞いて真っ先に何を思い浮かべますか?
赤レンガ倉庫、横浜港、大観覧車など…横浜にはたくさんの観光名所がありますが、きっと多くの方がこうと答えることと思います。

そう、「横浜中華街」です。

横浜中華街は神奈川県横浜市中区山下町一帯に位置し、いまや横浜を代表する観光スポット。神戸や長崎の中華街ともに「三大中華街」とされており、その中でも最大の中華街なのです。

約0.2平方キロメートルのエリア内に500店以上の店舗があり、その中でも特に目立つのが「中華料理店」の存在。
高級中華料理店から食べ歩きできる肉まんの露店まで揃っており、北京・広東・上海・四川といった各地域の本格料理や飲茶と中国の食を楽しめます。
皆さんも横浜中華街に行く目的が中華料理目当てという方が多いのではないでしょうか?

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今となっては日本有数のグルメタウンですが、元は横浜中華街は「中華料理街」というわけではありませんでした。
なぜこのような形で街が発展したのか?
今回は、150年あまりの間で有名グルメタウンへと成長した横浜中華街の歴史についてご紹介していきます。

横浜中華街の成り立ち

黒船の来航により、鎖国を解いて江戸幕府が開国を余儀なくされた1854年。
1857年の日米修好通商条約で日本各地に貿易港が開設されることが決まりました。
そのひとつが横浜港です。

出典:横浜市港湾局「横浜港の歴史」HP 横浜開港資料館所蔵

1859年6月の開港に際して、多くの外国人の商人や外交官が訪れ滞在することになるため、横浜には外国人居留地が設けられます。
居留地はもともと横浜新田と呼ばれる田園地区で、幕府はこの土地を村人から接収し、埋め立てた田んぼの上に商館などを建築したのです。

居留地に住むことができるのは、原則として修好通商条約と安政五か国条約を結んだアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの五か国の人だけでした。
しかし、日本語が不自由な欧米人だけではビジネスに支障をきたすため、通訳として中国出身者が選ばれたのです

日本は中国と修好通商条約を結んでいなかったため、本来なら中国人は入国できませんでしたが、ビジネスの好機と判断した中国の商人たちが日本へ渡ってきたというわけです。
しかし、当時は外国人街に中国人も大勢暮らしているといった程度だったので、チャイナタウンとしての色は薄かったそうです。

現在の横浜中華街のような姿になったのは、1923年の関東大震災以降のこと。
地震のショックで多くの欧米人が帰国してしまう一方、中国人は街の復興に注力。
この頃から日用品店だけでなく、中華料理屋が増え始め、横浜の観光地として脚光を浴び始めました。

元々中国出身者が得意とした代表的な職業として、料理、理髪、裁縫の3つがありました。
いずれも刃物を使用する職業であったことから、この3つを総称して「三把刀(さんばとう)」と呼び、これに対して政府は営業許可を与えていたのです。
横浜中華街は、中国出身者に許された3つの職業のうちのひとつ、「料理」が時代のニーズにマッチすることで発展した街だったのです。

このようにして、現在の横浜が誇る観光スポット「横浜中華街」が形成されていきました。外出自粛のムードが漂う世の中ですが、再び外を思う存分歩けるようになった際は、ぜひ今回のコラムの内容を思い出し、横浜中華街を歩いてみてくださいね。

アクセス

横浜高速鉄道みなとみらい線「元町・中華街駅」1番出口から徒歩1分
JR京浜東北線・根岸線「石川町駅」中華街口から徒歩5分

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