京浜工業地帯の歴史
2020年 10月23日
神奈川県といえば、横浜にある中華街をはじめ様々な観光地がございます。
そして観光地以外で有名な場所・地域といえば……そう、「京浜工業地帯」です。
日本には三大工業地帯と呼ばれる、工場が林立するエリアが3つあります。
そのひとつである「京浜工業地帯」は、神奈川県と東京都を中心とした工業地帯です。
昔小学校の授業で、名前を聞いたことがあるという人も多いのではないでしょうか?
東京の「京」と、横浜の「浜」から名付けられているこの工業地帯は、日本の製造業を今日も牽引しています。
鉄鋼・機械・化学などの重化学工業、食品・繊維などの軽工業ともに発達していますが、中でも重化学工業の割合が多く、印刷・出版や雑貨工業の発達が特徴的です。
それではこの工業地帯はどのように形成されていったのか?
本日はその京浜工業地帯の歴史についてお話します。
京浜工業地帯の歴史 明治時代後期の誕生から現在まで
形成期
京浜工業地帯の誕生は明治時代後期から昭和時代初期。
明治の後期から京浜臨海部の埋立がはじまり、その後、大正時代に現在の主要工場の大半が立地し、現在の工業地帯の骨格が形成されました。
この背景には、第一次世界大戦による世界的な好況や関東大震災を契機とした東京からの工場移転等があります。
横浜船渠会社(のちに三菱重工業㈱と合併)をはじめとし、明治~大正にかけて数々の工場が京浜工業地帯に誕生しました。
軍需産業展開期
軍需産業展開期と呼ばれる満州事変から終戦にかけての時期は、戦時統制により主として軍需産業の生産が行われました。
特に、造船・自動車等が政府の軍事優先の強力な支援により大きな発展を遂げた時期です。
戦後復興期
戦後は、京浜臨海部は戦時の空襲で壊滅的な打撃を受け一時停滞しました。
しかしその後、昭和20年の朝鮮戦争の特需景気により、機械工業や鉄鋼、エネルギー(石油、石油化学、電力)等の各分野での集中的な設備拡充が行われるようになり復興が進みます。
そうして日本の高度成長を担う中心的な工業地帯となっていきました。
成熟期
昭和30年代後半からは、京浜臨海部をはじめとする工業地帯に工場が密集したり人口が集中するようになりました。
それにより地価の高騰、公害の発生などの問題が発生します。
こうしたことから、工場の大都市集中を規制し地方への分散を促進するとともに、公害発生の規制、工場の環境施設の整備などにかかる法が制定されました。
安定成長下の模索期
昭和50年代、オイルショックにより高度成長時代が終わり、企業が新しい事業展開を模索した時期です。
立地規制により工場施設のリニューアルが進まず、施設の老朽化や法規制を避けるための工場域外移転、それに伴う雇用力減少等の問題が生じました。
転換期
昭和60年代以降は経済のグローバル化に伴い、工場は高い付加価値がある製品の生産に力を入れるようになりました。
京浜工業地帯は製品企画、研究開発の拠点としての機能を担うようになります。
また、市場への近接性から物流配送機能の立地がみられるようになりました。
こうして巨大な消費市場と原料・製品の輸出入に便利な港を有する大規模の工業地帯が形成されました。
ここ100年程度という短い年月ですが、様々な困難を乗り越え、日本の工業を支える工業地帯として発展してきました。
根岸地区の工場は高台や埠頭から見渡せるので、見かけた際にその圧倒的な景色を楽しんでみてはいかがでしょう?
京浜工業地帯は夜景スポットとしても有名なので、ぜひお写真にも残してみてください。